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第2回 『Tシャツが乾くまで』――あずさという人について

執筆者の写真: 中村 喜生
中村 喜生
20 時間前
読了時間: 7分

ドラマ『Tシャツが乾くまで』を観て、私がとても気になった人物がいます。

「あずさ」です。

あずさは、明るく、人懐っこく、誰に対しても物怖じしない女性として描かれています。

初めて会った人とも自然に話し、相手から聞かれたことには、自分のことを素直に話す。

そして不思議なことに、あずさと話している相手も、いつの間にか自分のことを話してしまう。

私は、あずさには、人の心を自然に開かせるようなところがあったのではないかと思います。

では、なぜあずさは、このような人になったのでしょうか。

そして、なぜ夫の樹生ではなく、充に心の内を話したのでしょうか。

私はそこに、人と人とのつながりについて考えさせられるものがありました。

「この人なら」と思った樹生

樹生が、あずさとの結婚を考えるようになった理由として、印象に残るエピソードがあります。

二人で電車に乗っていたとき、高校生がお年寄りに席を譲らない姿を見て、あずさが真剣に怒ったことがありました。

樹生自身は、自分の母親に対してさえ、思っていることを真正面から言えない息子でした。

だからこそ、おかしいと思ったことをはっきり言えるあずさの姿に、樹生は惹かれたのではないでしょうか。

樹生があずさについて語った、

「恥ずかしくもあり、誇りでもあった」

という言葉が、私はとても印象に残りました。

人前でも、自分がおかしいと思ったことを言うあずさを、少し恥ずかしいと思う。

でも、自分にはできないことをするあずさを、同時に誇らしく思っている。

樹生は、自分にはないものを持っているあずさに惹かれたのかもしれません。

それなのに、なぜ夫には話せなかったのか

あずさは樹生に、

「ねえ、ねえ、聞いて、聞いて」

と、よく話しかけます。

一見すると、何でも話せる夫婦のようにも見えます。

ところが、物語を見ていくと、あずさが心の内を話していた相手は、第3金曜日にコインランドリーで会う充でした。

私は、ここで少し立ち止まりました。

なぜ、一番身近にいる夫ではなく、充だったのでしょう。

あずさが樹生を信頼していなかったから、と単純には考えられないように思います。

むしろ、大切な人だからこそ、言えないこともあるのではないかと思ったのです。

嫌われたくない。

心配をかけたくない。

分かってもらえなかったときが怖い。

今まで築いてきた関係を壊したくない。

人には、そんな気持ちもあるのではないでしょうか。

充だから話せたこと

一方、充は、あずさの日常生活の中心にいる人ではありません。

第3金曜日に、コインランドリーで会う人です。

だからこそ、話せたこともあったのかもしれません。

私は、この二人を単純に男女の関係として見るだけでは、 何か大切なものを見落としてしまうような気がします。

あずさにとって充は、

「何でも話すことのできる人」

だったのではないでしょうか。

話が合う。

一緒にいて心地よい。

また会って話をしたい。

そんな相手を見つけた。

そして、その相手が男性である充だったために、 二人の関係は周囲から見ると分かりにくいものになっていったのかもしれません。

恋人とも言い切れない。

普通の友人とも少し違う。

私は、あずさにとって充は、何か答えを出してくれる人というより、 自分の心の内を、そのまま置いていける相手だったのではないかと感じました。

二人の間には、二人にしか分からない「心の居場所」のようなものがあったのかもしれません。

「話す」ことと「心を話す」こと

あずさは樹生に、たくさん話しています。

だから、二人に会話がなかったわけではありません。

それでも、夫には話せないことを充には話していた。

この二人を見ながら私は、

「話していること」と、「心を話していること」は、 同じではないのかもしれない。

と思いました。

これは夫婦だけの話ではないと思います。

親子でも、友人でも、毎日のように話しているのに、本当に苦しいことは言えないことがあります。

反対に、それほど長く付き合っていなくても、なぜか自分の気持ちを話せる人もいます。

人が誰かに心を開くということは、付き合った時間の長さや、 関係の近さだけでは決まらないのかもしれません。

「この人になら、ここまで見せても大丈夫」

そう感じられる何かが必要なのではないでしょうか。

あずさと充に共通していたもの

そして私は、あずさと充には、どこか共通するものがあったのではないかと考えています。

あずさは、両親を知らず、児童養護施設で育った人物として描かれています。

一方、幼い頃の充には、両親に自分の存在を気づいてもらいたくて、 わざと牛乳をこぼす場面がありました。

「僕を見て」

「僕がここにいることに気づいて」

私は、幼い充の行動から、そのような思いを感じました。

二人の生育環境は違います。

それでも、

「自分を見てほしい」「自分を知ってほしい」「誰かとつながっていたい」

というところでは、二人の心のどこかに共通するものがあったのではないでしょうか。

だからこそ、お互いに、

「この人とは話せる」

「この人といると楽だ」

と感じたのかもしれません。

充が両親に会いに行く日、誘われてもいないあずさがバス停に現れたことも、 私は印象に残っています。

あずさは、「人」に対する好奇心がとても強い人だったのではないでしょうか。

両親を知らずに育ったあずさだからこそ、

「充は、どんな両親のもとで育ったのだろう」

「両親に会ったとき、充はどうするのだろう」

と、自分の目で見届けたかったのかもしれません。

もちろん、これは私なりの解釈です。

「愛着」という視点から

私は、あずさと充を見ていると、「愛着」ということを考えます。

ただ、二人を「愛着障害である」と決めつけたいわけではありません。

幼い頃、人との関係の中で何を経験したのか。

自分を見てもらえたのか。

自分の気持ちを受け止めてもらえたのか。

そうした経験が、大人になってからの人との距離の取り方や、 「誰かとつながりたい」という気持ちに、どのようにつながっていくのか。

私は、そこに関心があります。

そして、あずさと充は、育ってきた環境こそ違っていても、 互いの中に何か似たものを感じ取ったのではないでしょうか。

それが、第3金曜日の二人の時間につながっていったのかもしれません。

翔くんへの愛情

そして、あずさを考えるうえで忘れられないのが、息子の翔くんです。

あずさは、翔くんとたくさん話をし、たくさんの愛情を注いでいたように私には見えました。

人は、自分が子どもの頃に得られなかったものを、 自分の子どもには与えたいと思うことがあります。

「自分が寂しかったから、この子には寂しい思いをさせたくない」

「自分がしてほしかったことを、この子にはしてあげたい」

あずさにも、そのような思いがあったのでしょうか。

本当のところは分かりません。

けれども、翔くんと接するあずさを見ていると、私はそんなことを思います。

自分が育った環境とは違うものを、翔くんには残そうとしていたのかもしれません。

だからこそ、あずさの突然の死は、あまりにも無念だったと感じます。

あずさという人を見て

明るく、人懐っこく、誰にでも自然に話しかけるあずさ。

夫の樹生には「ねえ、ねえ、聞いて、聞いて」と話しかけながら、 心の内を話す相手として充と会っていたあずさ。

そして、自分の息子には、たくさんの言葉と愛情を注いでいたあずさ。

一見すると、それぞれが矛盾しているようにも見えます。

けれども私は、そのどれもが「あずさ」だったのではないかと思います。

人には、いろいろな顔があります。

そして、相手によって話せることも違います。

だから私は、あずさを見ながら改めて考えました。

身近な人と「話している」ことと、その人に「心を話せている」ことは、 同じではないのかもしれない。

そして、人が「この人になら心を話せる」と感じることには、 その人がこれまでどのように人とつながってきたのかということも、 どこかで関係しているのかもしれません。

『Tシャツが乾くまで』のあずさという人を通して、 私は、人と人がつながることの難しさと、その大切さについて考えさせられました。 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

次回も『Tシャツが乾くまで』に登場する人たちを通して、 「人の心」と「愛着」について考えてみたいと思います。

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